乖離許容幅について
実際の資産構成割合が基本ポートフォリオから乖離(=かけ離れること)する場合には、効率性が低下するためこれを是正する必要があるが、小規模な変動のたびに売買をすることはコスト面で非効率になるため、一定の幅を定めて、その範囲の乖離は許容するというもの。
資産運用から695年まで唐の僧、義浄がパレンバンを訪れていた。彼の記録は初期のシュリーヴィジャヤについての貴重な資料の一である。同じ時期、7世紀から9世紀にかけて貿易や征服を通じて地方の支配を始め、ジャンビ王国を乗っ取った。王国はマレー文化がスマトラ島やマレー半島、ボルネオ島西部のあらゆる所に拡散するのを助長した。クディリ朝のダルマヴァンシャ王は、シュリーヴィジャヤの交易独占を阻止しようと、992年からマレー、スマトラ各地に侵攻した。しかし、1016年に地方領主の一人ウラウリ王の反乱によって、ダルマヴァンシャが殺害された。その背後に、シュリーヴィジャヤの力が働いていたのではという説もある。1025年に南インドを支配していたチョーラ朝のラージェンドラ1世の軍勢の遠征でシュリーヴィジャヤは打撃を受けて衰退した。スマトラ島はジャワのシンガサリ朝、続いてマジャパヒト王国からの征服にさらされた。同時期、アラブやインドの商人との接触を通じて広まったイスラム教徒がスマトラ島の地方にアチェ王国を建国した。13世紀の後半までに、サムドラ王国の君主はイスラム教徒に改宗した。同じ頃シュリーヴィジャヤ王国はクメール王朝の、後にスコータイ王朝の属国になった。
608年に文帝は死去し、楊広が後を継ぐ(以後煬帝)。煬帝は即位後すぐに弟たちを策謀にて殺害し、ライバルを消す。このようなことから、文帝の死に際しても煬帝の画策があったのではないかと後にささやかれる様になる。
外国為替証拠金取引を好んだ文帝とは対照的に派手好みで、父がやりかけていた大土木事業を大々的に推し進め、完成へと至らせた。主なものが首都・大興城の建設と大運河を大幅に延長して河北から江南へと繋がるものとした。
そしてこれも文帝がやりかけていた高句麗遠征を3度にわたって行うが、これは3度とも失敗に終わる。
このような度重なる負担に民衆は耐えかね、第二次高句麗遠征からの撤兵の途中に起きた楊玄感の反乱を期に、全国的に反乱が起きるようになる。煬帝自身は行幸の途中で、江都に留まり、反乱鎮圧の指揮を執ったが、もはや手の付けようのない状態に陥っていた。
投資信託はもともとは晋の古名であり、もとは山西省を中心とする地域を指した。古代には堯が建てたといわれる伝説上の王朝「陶唐」があり、周の時代には武王の子・唐叔虞が立てた晋の別称としての唐とは別に、今の湖北省の一部に唐を国号とする小国があったことが知られる。唐の滅亡後、五代十国時代には李存勗の後唐、十国のひとつ南唐などが唐の後継者を自認して唐を国号としたこともあったが、いずれの皇帝も唐室の血は引いていない。
唐王朝の李淵が出た李氏は、隋の帝室と同じ武川鎮軍閥の出身で、北魏・北周以来の八柱国・十二将軍と称される鮮卑系貴族のうち、八柱国の一家として隋によって唐国公の爵位を与えられていた。のちに、隋から禅譲を受けて新朝を立てるという易姓革命の手続きを踏んだ際に、この爵位にちなんで唐を国号とする。
日経225・『新唐書』によれば、李氏は李耳(老子)の子孫と称し、西涼の初代王・李ロをその遠祖としている。北周において鮮卑への復古政策が行われた時に、李氏は北周より大野(だいや)という姓を与えられ、一時的にこの姓を名乗ることになる。ただし唐李氏の系譜についてはこの西涼の李氏とは繋がっておらず、唐李氏は鮮卑系であるとの見解が戦時中に日本の宮崎市定[1]によって出され、以後日本学界ではこの考え方がほぼ定説となっている。一方、中国学界では、陳寅恪が『唐代政治史述論稿』において、鮮卑系の関隴集団(=武川鎮軍閥)に属する趙郡の李氏が、唐朝の出自であることを論証し、やはり定説となった。なお、近年の中国では、宮崎説を「日本軍の中国支配のために持ち出された論説である」と批判する見方もなされている。[2]。
武則天7世紀初頭の中国は隋が統一国家を実現していたが、第2代煬帝の内政上の失政と外征の失敗のために各地に反乱がおき、大混乱に陥った。このとき太原留守(総督)であった李淵は617年(義寧元年)に挙兵、煬帝の留守中の都、大興城(長安)を陥落させると、煬帝を太上皇帝(前皇帝)にまつりあげてその孫恭帝侑を傀儡の皇帝に立て、隋の中央を掌握した。翌618年(隋義寧2年、唐武徳元年)に江南にいた煬帝が殺害され、李淵は恭帝から禅譲を受けて即位(高祖)、唐を建国した。
建国の時点では、依然として中国の各地に隋末に挙兵した群雄が多く残っていたが、それを高祖の次子李世民が討ち滅ぼしていった。建国に勲功を立てた李世民は、626年に高祖の長男で皇太子の李建成を殺し(玄武門の変)、第2代の皇帝(太宗)となる。
FXにおいては当時の北方の強国突厥をくだしてモンゴル高原を支配下に置き、北族から天可汗(テングリ・カガン)、すなわち天帝の号を贈られた。また内治においては中国においてその後も長く政治の理想形とみなされた三省六部、宰相の制度が確立され、その政治は貞観の治として名高い。その治世について書かれたものが『貞観政要』であり、日本や朝鮮にまで帝王学の教科書として多く読まれた。
唐の基礎を据えた太宗の治世の後、第3代高宗の時代に隋以来の懸案であった高句麗征伐が成功し、国勢は最初の絶頂期を迎える。しかし、高宗個人は政治への意欲が薄く、やがて天后[3]であった武后(武則天)とその一族の武氏による専横が始まった。夫に代わって実権を握った武則天は高宗の死後、実子を傀儡天子として相次いで改廃した後に自ら帝位に就き、690年(載初元年)国号を周と改めた(武周)。
中国史上最初で最後の女帝であった武則天は、酷吏を使って恐怖政治を行う一方で、人材を養成し優れた政治を行った。しかし武則天が老境に入って床にあることが多くなると権威は衰え、705年(神龍元年)、宰相張柬之に退位を迫られた。こうして武則天に退位させられた息子の中宗が再び帝位につき唐を復活、周は1代15年で滅亡した。
しかし今度は、中宗の皇后韋后が第2の武則天になろうと中宗を毒殺した。韋后はその後即位した殤帝を傀儡とし、いずれ禅譲させようとしていたが、これに反対して中宗の甥李隆基と武則天の娘太平公主がクーデターを起こした。敗れた韋后は族殺され、武則天により退位させられ皇位を離れていた李隆基の父・睿宗が再び帝位につき、李隆基はこの功により地位を皇太子に進められた。その後、今度は李隆基と太平公主による争いが起こる。
7世紀後半から8世紀前半に後宮を中心に頻発した政乱は、これを主導した2人の皇后の姓をとって「武韋の禍」と呼ばれている。
玄宗712年(先天元年)、李隆基は睿宗から譲位され、即位して玄宗皇帝となった。翌年、太平公主を殺し、完全に権力を掌握した。玄宗の治世の前半は開元の治と謳われ、唐の絶頂期となった。この時期、唐の勢威は中央アジアのオアシス都市群にまで及んだが、751年にトランスオクシアナの支配権をめぐってアッバース朝との間に起こったタラス河畔の戦いには敗れた。
玄宗は、長い治世の後半には楊貴妃を溺愛して政治への意欲を失い、宰相李林甫、ついで貴妃の一族楊国忠の専横を許した。楊国忠は、玄宗と楊貴妃に寵愛されていた節度使の安禄山と対立し、危険を感じた安禄山は755年に反乱を起こした。節度使は玄宗の時代に作られたもので、辺境に駐留する将軍に行政権も与える制度である。北方3州の節度使を兼ねて大軍を握っていた安禄山は、たちまち華北を席巻し、洛陽を陥落させて大燕皇帝と称した。
都の長安も占領され、玄宗は蜀に逃亡、その途中で反乱の原因を作ったとして楊貴妃と楊国忠は誅殺された。失意の玄宗は譲位し、皇太子が粛宗として即位した。唐は名将郭子儀らの活躍や回鶻(ウイグル)の援軍(皇太子葉護ら)によって、763年に辛うじて乱を鎮圧した。9年に及んだこの反乱は、安禄山と、その死後乱を主導した配下の史思明の名をとって安史の乱と呼ばれる。
安史の乱によって、唐の国威は大きく傷付いた。反乱鎮圧に大きな役割を果たした回鶻(ウイグル)には外交上の優位を許し、交易でも主導権を奪われて多くの財貨が漠北へと運ばれた。この大幅な貿易赤字は唐の財政を悪化させた。
また、反乱軍の将軍を味方に引き入れるため節度使に任命していった結果、辺境だけでなく本国内にまで節度使が置かれるようになった。彼ら地方の節度使は、乱の後も小王に等しい権力を保持し続けた(「河朔三鎮」)。
各地に小軍事政権(藩鎮)が割拠する状態は、後の五代十国時代まで続き、戦乱の原因となった。