期待収益率について

基本ポートフォリオの前提となった仮定の元で、将来にわたって資産運用を行うときに期待できる平均的な収益。投資する資金(あるいは期初の価格)に対してどれくらいの収益が統計的に期待できるかを示したもの。 FX 初心者の官制は三省六部を頂点とする。中書省が詔勅(皇帝の命令)の起草、門下省がその審議を行い、尚書省が配下の六部(礼部・吏部・戸部・兵部・刑部・工部)を通して詔勅を実行する。門下省の長官は侍中(2名)、中書省の長官は中書令(2名)、尚書省の長官は尚書令と呼ばれるが、尚書令は皇子時代の太宗が勤めていた時期があったため唐を通じて欠員とされ、副長官の僕射(ぼくや、左右一名ずつ)が実質上の長官であった。 これら6人の省の長官たちが宰相職とされ、重要政策の決定は宰相の合議によって行われた。しかし次第に中書令の権力が強くなり、皇帝の代理人としての力を振るうことになる。 尚書六部の下には漢代以来の実務機関である九寺、五監があり、庶務を担当した。 日経225とは別に宮中の文書を扱う秘書省・皇帝の衣食などを取り扱う殿中省・後宮の管理を行う内侍省があり、合わせて六省と呼ばれる。他に監察機関として御史台があり、官僚たちの監察を行った。 これらの部署に配置される官僚達は従九品下から正一品までの計30階位に分けられている。 しかし律令制の崩壊に伴い、新たな状態に対応するために新たな官職が設けられるようになった。主なものに州の監察を行う観察使、国家財政を司る度支使、運送を司る転運使、後述の塩鉄専売を司る塩鉄使などがあり、それまでの令によって定められた役職を上回る権限を示す。これら令外官を使職と言い、令制官はそのまま形骸だけを残される。この状態は北宋にまで引き継がれ、神宗の元豊の改革まで残る。 これら使職は律令によって定められる役職の権限を上回って存在し、度支使は本来の財政担当である六部のひとつ・尚書戸部を上回る権限を持つこともあり、塩鉄使はその財政上の重要さから宰相に準ずる職となる。その後、塩鉄使が転運使を兼ねて東南部の財政を、度支使が西北部の財政を監督するようになる。しかし節度使の割拠により、それらの地域の監督が難しくなると度支使と塩鉄使と戸部曹が一本化され、三司と称して中央財政を司る。 またそれまで中書省の中書舎人が行っていた詔勅の起草が、玄宗によって作られた翰林学士により奪われ、翰林学士はこれも宰相に準ずる職として大きな権限を持つことになる。 唐は、全国を10の道に分け、後の玄宗期に15に分けた。 道は監察など広域行政のための単位であり、実際の施政を行うのは刺史を長官とする州(郡)と、その下にあって県令を長官とする県の二本立ての行政区画である。州は全国で約350あり、県は全国でおよそ1550であった。 先物取引に100戸をまとめて1里とし、5里を1郷とする行政単位がある。この制度を郷里制と呼び、これは隋より受け継いだものである。一つの里にはその里の諸事に責任を持つ里正という役が里の中から選ばれ、徴税・犯罪の取り締まりなどに当たった。これと並列して隣保制というものがある。これは郷里の中間組織として運用されていたと考えられているが、実際にどのように運営されていたかは資料の間で食い違いがあり、現在の所はっきりとは分かっていない。 安史の乱後は節度使・観察使の藩鎮勢力が地方に割拠するようになり、中央の地方への影響力は甚だ衰えた。州も本来は中央直属なのであるが、実質的に藩鎮の下部組織となってしまった。 また国内には領土の統治のために連絡用の駅伝が30里ごとに置かれており、有事に備えた。 唐代は歴代王朝の中でも後漢・明と並んで宦官悪の顕著な時代とされている。唐において最初に権勢を持った宦官は玄宗の側近であった高力士である。高力士は玄宗から絶大な信頼を受け、李林甫などは高力士と結んで高位にまで上ったといわれる。高力士自身は玄宗への忠誠心で全てができているような人物であり、あまり表には出ずに終わった。 安史の乱後、粛宗擁立に功績を挙げて宦官として始めて宰相となった李輔国、代宗の下で驃騎将軍となった程元振などを経て、神策軍を擁した魚朝恩の台頭の以後はほぼ宦官の存在が唐朝廷の大きな位置を占めることになる。 神策軍は元は唐の地方軍のひとつに過ぎなかったのだが、魚朝恩の行動により皇帝親衛軍とされ、以後代々の長官には宦官が任命されるようになり、宦官の権力の拠り所となった。 これら宦官の専横に対して皇帝側でも宦官を排除しようとする動きが出てくる。憲宗は前述したように危険な薬物の副作用で宦官を虐殺したとされるが、これを副作用に事付けて宦官を殺そうとしていたのではないかと見る向きもある。憲宗の孫の文宗は宦官に対して不快感を抱いており、それを察した官僚李訓・鄭注は宦官殺害の策を練り、835年に「甘露が降るという瑞兆があった」という偽りを報告し、これを口実として宦官を集めて一気に殺害する計画を立てた。しかし内部の不一致によりこの計画は失敗し、李訓たちは殺される。これを甘露の変と呼び、これ以降は宦官を抑えようとする動きはなくなる。 先物取引と宦官勢力の対立が表面化したこともあったが、両者は基本的に不可分の存在であった。宦官の権力の源泉は何といっても皇帝であり、皇帝なくして宦官はあり得なかった。仇子良が後輩たちに残した言葉はこのことを如実に示している。また宦官の悪が盛んにといわれていたにも関わらず宦官の制度が残されたのは、皇帝側からも宦官を必要としてことを示しており、前述の皇帝側からの宦官に対する行動はあくまで宦官の専横の抑制を目的としており、宦官制度自体は唐代を通じて存された。宦官側・皇帝側、双方からの必要性があったからこそ宦官という存在がありえたのである。[4] 権勢を振るった宦官も唐末、朱全忠・李克用らが争いあい、皇帝の権力が名目のものに成り果てた状態になってからはその勢力を著しく衰えさせる。最終的に宦官勢力は902年、朱全忠の力を借りた昭宗により全滅させられるが、その2年後に昭宗は朱全忠により殺され、さらにその3年後に唐は朱全忠に禅譲を行い、完全に滅亡する。 ※唐代の単位については以下の通り。1畝=約580平方メートル。100斗=1石=59.4リットル。10尺=1丈=3.11m。1両=37.3g。 唐の税制は北周以来の均田制・租庸調制であり、兵制は府兵制である。この両制度は互いが互いに不可欠な制度である。 均田制はまず全国の丁男(労働に耐えうる青年男性)一人につき永業田(その後、永久にその土地を所有することが認められ、子孫に受け継がれる)を20畝、口分田(当人が死亡するか、60歳になるかすると国家に返却する)が80畝支給される。また官職にある者は職分田が与えられる(これは辞職した時に返却する)。その他にも丁男がいない戸、商工業者、僧侶・道士などの特別な戸に対してもそれぞれ支給量が決められている。 そしてこれらの支給に対して、租庸調と呼ばれる税を納める義務を負う。租は粟(穀物)2石、調は絹2丈と綿3両を収める。年間20日の労役の義務があり、それを免れるために収める税を庸と言い、労役一日に対し絹3尺あるいは布3.75尺を収める。 府兵制はこれらの戸籍に基づいて3年に1度、丁男に対して徴兵の義務を負わせた。 均田制・府兵制の両制度の実施には戸籍が必要不可欠であるが、玄宗期になると窮迫した農民が土地を捨てて逃亡する(逃戸と呼ばれる)事が多くなり、また窮迫した農民から買い取ることにより、土地の兼併が進んだために戸籍を正確に把握することが難しくなった。均田・租庸調制と府兵制は崩壊し、それに代わる新しい税制・兵制が必要となる。 新しい兵制は節度使・募兵制である。それまでは労働税として兵役に就かせていたが、節度使制ではその土地の租税を節度使が徴収し、それを基に兵士を雇い入れて国境防備に使うというものである。 710年に安西節度使(天山山脈南路の防衛)を置いたのを初めとして719年までに10の節度使を設置している。当初はあくまで国境警備のためのものであり、辺境地域にしか置かれていない。しかしこの制度は節度使に過度の権力を持たせることになり、安史の乱の原因となったことは前述した。安史の乱後は内地にも節度使が置かれるようになる。このことで唐は半割拠状態となり、地方の節度使は唐に対する税の貢納は行っていたものの、徐々に自立色を深めていき、最終的には節度使により唐は滅ぼされることになる。 780年に施行された新しい税制は、それまで貧乏・富裕関らずに均等な額の税を徴収していたのを財産に応じた額に改めたものである。夏(6月)と秋(11月)の年二回徴収するので両税法と呼ばれる。ただし夏に収めるものは麦であり、秋に収めるものは粟と稲である。税額は一定しておらず、まずその年に使われる年間予算を計算し、それに併せて税額を各地に割り当てるというものである。