基本ポートフォリオについて

株式や債券などを組み合わせて資産運用する際に、各資産の期待収益率やリスク(=標準偏差・ブレ)、その相関などを考慮して、中長期的観点から最適な資産配分を決定し、維持しようとするもの。 外国為替によって科挙が軽視されていた時代に科挙を受けていた層は新興地主層で、唐全体の流通が活性化したことで財産を積み上げてきた。これらの科挙合格者達は武周期を境に官界へ進出し始め、官僚としての特権を元にさらに財産を積み上げて行き、豪商・富農と呼べる存在が現れてくる。 商業が活発化したことは都市の市(いち)の変化によっても知れる。唐前半までの市は場所と時間が限られており、商売するためには役所に登録しなくてはならず、また都市の区画ごとに壁を作って、自由な流通を妨げていた。しかし唐後半より、商取引を望むものの増加に伴い、そこかしこで市が開かれるようになり、時間制限や登録制は有名無実化した。また、都市以外の場所でも草市(墟市)の形成が見られた。 また煬帝によって作られた大運河も流通の柱として大きな活躍をし、その重要さから政治都市・長安より、大運河沿いの商業都市・開封が中国の中心都市の地位を奪うことになる。 これら社会の変化に貴族層は付いていけず、貴族の影響力の牙城であった門下省はその実質を失い、中書省に吸収されて中書門下と呼ばれるようになる。前述のように退勢を自覚した貴族層は科挙を受けるようになるが、流れを止めることはできず、五代十国時代の戦乱の中で中国史に於ける貴族という存在は消滅する。 これら新興地主層は五代十国の中でもさらに勢力を積み上げて、北宋代の形勢戸に繋がり、この層が科挙官僚を生み出すことで士大夫層の形成へと繋がる。 FXは皇族と貴族層によって経営されていた。荘園と均田制とは相容れない存在のはずであるが、間違いなく荘園は存在していた。貴族達の持つ均田制はその範疇外にあったと見る説もあり、そもそも均田制が全国的に施行されていたのかを疑問視する説もあるが、研究途上であり、容易に結論は出ない。 均田制が崩壊して、両税法に変わった。このことは別の面から見れば大土地所有を公認したことになる。 荘園の大きさは大体10頃から100頃(58?580アール)の大きさで、雇い入れた客戸(本籍地を離れた民)あるいは奴婢に田地の耕作や農産物の加工などに当たらせる。またその土地を小作農に貸し出す場合もあり、その際に種籾や耕牛などを貸し出すが、その借り賃で破産してそのまま荘園に囲い込まれる例も多かった。 後期以降は新興地主層が荘園の主な経営者となるが、他にも新たに台頭した節度使勢力も積極的に荘園経営に取り組み、財力を蓄えた。 首都の長安は世界各国から人々が訪れ、国際色豊かな都市であった。日本や新羅、吐蕃など周辺諸国からやってきた使節・留学生はもちろん、西方からはるばるやってきた僧侶や商人たちがいた。後の時代の首都である開封や杭州が東の海の道を向いていたのに対し、長安は西のオアシスルートを向いた首都であった。 科挙制度において儒教の経典が必須科目となり、太宗は孔穎達に命じてそれまで注釈により解釈の違いが大きかった五経を一つの解釈にまとめる『五経正義』を編纂させた。このことによりそれまでの不便が改められ、知識階級の中での教養を共通のものとした。しかしこれによって逆に思想の発展が阻害されることにもなった。 FXに伝来した仏教は魏晋南北朝時代の混乱の中で飛躍的にその勢力を伸ばし、在来宗教である道教を圧するほどになった。玄奘・義浄などはインドへ赴いて大量の経典を持ち帰った。貴族・皇族の庇護を受けて大いに栄えた。特に武則天は仏教を厚く保護したことで有名である。この時代の宗派には禅宗・浄土教・密教・華厳宗などがあり、それぞれ栄えたが、三階教は徹底的に弾圧された。 皇室の李氏は李耳(老子)を祖とすると称していたので、道教は唐代を通じて厚い保護を受け、道先仏後という原則が定められていた。特に玄宗はその廟号も道教風であり、道教に傾倒している。しかしこの保護はあくまで皇族の間に留まり、民間では圧倒的に仏教の勢力が強かった。 その他にも長安にはイスラム教・マニ教・景教(ネストリウス派キリスト教)・?教(?は示偏に天。ゾロアスター教)などの寺院が立ち並び国際都市としての景観を持っていた。これらが領土の広さと並んで唐の世界国家としての象徴である。 FXの乱以後は領土が縮小し、西方を吐蕃に奪われたことで次第に国粋主義的になった。第15代武宗は道教を信奉し、仏教を初めとした外来宗教を弾圧した(会昌の廃仏・三武一宗の法難の第三)。ただしこの弾圧は宗教的な色は薄く、出家することで税逃れをする私度僧と呼ばれる者を還俗させることで財政の改善を狙う目的が主だった。しかしながらこの弾圧を契機として、仏教はもとより上記の各宗教も大打撃を被り、往時の繁栄を取り戻すことはなかった。復興した仏教も、禅宗や再興した天台宗が中心となるが、それらは、各宗が混在した仏教センター的な大伽藍中心の仏教ではなくなっていた。そのことは、禅宗教団中の新たな規則である百丈清規中の「一日作さざれば一日食らわず」という有名な言葉に表されている。 また、停滞していた儒教の方でも、変化の兆しが見られ始める。それは、韓愈の著した『原道』『原性』などの中に見られる思想で、堯舜や孔子以来脈々と続く「道統」論を提唱し、宋学の先駆となった。 かつて安禄山軍から投降した三人の武将に授けた節度使職を元とする成徳軍・盧竜軍・天雄軍の三つの節度使は特に独立傾向が強く、節度使の地位を世襲化し、中央に納めるべき税を納めなかった。この三つを河朔三鎮と呼んでいる。 憲宗は節度使勢力を抑えるために自立傾向の強い節度使に対して討伐を加え、その結果、反抗の度合いが薄くなった節度使の権限を縮小し、その任期を短くすることで再び反抗することを抑えようとした。この思惑は成功はするが、思わぬ副作用を生んだ。任期を短くされた節度使のポストは官僚が中央へ帰るときに使う賄賂を溜め込むための物となり、短い任期の中で厳しい収奪と兵士の食料・給料などの着服が行われるようになる。 この影響は初めのうちは不満を持った兵士が兵乱(兵士中心の反乱)を起こすことにより、上司たる節度使を追放し、自分達に都合の良い節度使を地位に据えるという形で現れる。このようになると新たに強い権限を得た上級兵士の間では不正が横行するようになり、その不正を是正するために強硬な姿勢を取った節度使もいたが、これも追放された。このような兵乱の代表が裘甫の乱である。 兵乱はあくまで自分達の利益のために背いただけであって、いずれは矛を収めるのが、いわば予定調和としてあった。しかし収奪された民衆は節度使にも不満を抱くが、それを抑制できない唐政府にも不満を抱き、唐にとってより危険な存在であった。?の乱は初めは兵乱として始まったが、後に多数の農民が参加して民乱(民衆が中心の反乱)と化した。この乱は黄巣の乱の前段階と言え、黄巣の乱は初めから民乱として出発する。 安史の乱以後の唐の財政は苦しくなり、その打破のために758年に塩と鉄の専売制を実施した。 専売の統括をする役職が塩鉄使である。塩の産地には製造業者を集める巡院という機関が置かれ、ここで登録を受け、できた塩は登録された塩商人に売り、外部へ塩が流出しないように監視された。 専売制によってかけられる税は莫大で、塩にかかる税額の大きさは専売制実施前が1斗が10銭であったのが実施後には110銭になるというほどであった[5]。しかもこれ以後財政が悪化するとその都度値上げされている。また、生産者の自由も制約されるようになると製塩従事者の勤労意欲も減退して、品質の低下に繋がった。 生活に不可欠な塩に対してこのような価格をつけることに不満を持った人々により塩の密売が当然行われ、政府は取締りを行って摘発者には死刑などの厳しい処分を下したが、密売人側も次第に武力を持った組織だったものになっていった。黄巣はこの集団の中から登場して晩唐を揺るがし、唐に致命傷を与えることになる。 科挙は試験によって人材を選抜する制度であるが、合格のためには長期間にわたって勉強にのみ集中できる環境が必要であり、また書物を購入するための金額もかなりの高額になることから合格するにはそれなりの財産を持つことが必要であった。